「結局、戻りませんでしたね」
 諸々の用を済ませて、士郎と凛がイギリスへと戻るその当日。
 空港まで見送りに来た桜は、名残惜しそうに、あるいは心配そうに士郎を見ながらそう言った。士郎はくすぐったそうに笑って、気長にやるさと軽く返した。それから服の上から腕をさすって、
「力は落ちたけど肝心の回路や魔力量には影響はなかったわけだし」
 そうですか、と桜はどこか残念そうにこぼした。
「気を付けてくださいね、女の子の体って脆いんですから」
 と、未だ包帯の巻かれた右手を見ながら言う。
 バツが悪そうに右手を隠した士郎から凛に視線を移し、
「今さらですけど身分証とかパスポートとかどうしてるんですか」
「望めば手段は用意できるものよ、桜。それであなたは本当にこっちに残るの」
「はい。せっかく誘ってくれたのに、ごめんなさい」
「だてに六年居た訳じゃないのよ。パイプもツテも整えたし、あなたとアイツの二人くらい隠し通せるわ。むしろこっちにいたら万が一の時後手に回っちゃう」
「お邪魔じゃありませんか」
「そんな風には思わないわよ」
「ありがとうございます。でも、うん、やっぱり私はこっちに残ります」
「そ、残念。本人がそういうなら仕方ないけれど」
「また今度、遊びに行きますから」
「楽しみにしてる。……一つ聞きたいのだけど」
「はい」
「こっちに残る理由って慎二がらみじゃないわよね?もしそうなら首に縄掛けてでも引っ張ってくわよ」
「違いますよ。単に私にもこっちの生活があるってだけです。姉さんたちが六年向こうにいたみたいに私だって冬木にいたんですよ?」
「それならいいけど。えーと、桜、またね」
 少しはにかんで、凛は右手を差し出した。
「はい、また」
 桜はその手をしっかりと握り返した。

 飛行機に搭乗し座席に腰をおろしたところでふと、士郎は横に座って自分の右手を眺めていた凛に声をかける。
「なあ、遠坂。今更なんだけど」
「なに」
 これ、と自身のパスポートを凛に見せるように振りながら
「わざわざ作らなくても暗示でも使ったらよかったんじゃないのか。どうせ一瞬なんだし」
 凛はちょっと動きを止めて「あら?」と首をかしげた。
 士郎はその様子に吹き出してからパスポートをしまった。
「まあ、もとに戻るまでいちいちそんなことするのも面倒といえば面倒だしある方が便利だけどな」
「うん、そうよね?結果オーライってことでひとつ」
「オーライ、しかし向こうに着いたらまたちょっとバイト探さなくちゃな」
「ルヴィアの所……はちょっと無理か」
「メイド服は着たくないなぁ……」
「パーティージョークだっていうならともかく制服としてはちょっとね。あそこ以上に割りの良いバイトってのもなかなかないだろうけど」
 以前に何度か見かけたハウスメイドの格好を思い出して、更にそれを着た自分を想像して士郎は乾いた笑いを浮かべるとともに窓に映った自分の顔に眼を向けた。鋭角さとは無縁の丸みのある骨格、白い肌、大きな瞳、長い睫毛、髪はざんぎりであるが髪質自体はしっとりと湿っている。まぎれもなく女の子の顔だった。
 次に右手を見てみる。小さな手だった。タコの一つもない綺麗な手。
 だけど、と口元が笑みをつくる。
 あの晩の、剣の感触を、手ごたえを、その感慨を思い出す。
 その感触は確信を一つ、彼の胸の内に宿してくれた。振れるのだ。こんな手でも剣は振れるのだ。
 それだけ、ただそれだけ。けれど、つまりそれは、何を失ったわけでもないということに他ならない。
「ふうん」
「なんだよ、遠坂」
「別に、何にも?ちょっと嬉しかっただけ」
「そうかい」
「そうよ」
 
 病室らしき部屋に二人、僕と変な衛宮がいた。
 どうにもはんちくな格好をした衛宮はいくらか大人びたものの相変わらずの童顔で「久しぶり」と繰り返した。
 ひとつ鼻をならして上半身を起こす。
「髪、あげたらいくらかマシになるんじゃないのか」
「いや、それは勘弁してくれ」
「ふん。しかしこれで正義の味方に堂々復帰か?」
「まだ具体的に何かした訳じゃないけどな」
「はぁ……ん。のんびりしてるな。人生は短いしその絶頂はもっとだ」
「―――なんつーか」
「うん」
「遠坂ほったらかしにするわけにもいかないし」
「問題ないだろ、あの男前が放置された位で喚くわけない」
「喚きはしないけどさ、次に会うときが怖いし何より俺の方がきつい」
「幸福そうだな、目障りだ」
「他人が幸せそうにしてると嬉しくならないか」
「素直にムカつく」
「そう言うこと言ってると幸福が逃げるぞ」
「別に僕は幸せになりたいわけじゃない。ただどこかに行きたいだけだ」
「人生よりも速く、運命よりも遠く―――か?」
 衛宮は知っているはずもない僕の言葉を吐く。その言葉の違和感に僕が気づくのと、先ほどまで衛宮だったものがなにやら訳の分からない靄に変わるのはほとんど同時だった。靄は僅かな対流に揺らぐようにしながら椅子の上に胡坐をかくように姿勢を変えていく。
 起こした上半身を僅かに引く。コレは、衛宮なんかじゃない。もっと別の何がしかだ。しかし、この訳のわからなさには妙な既知感がある。その記憶を探る僕の様子が面白かったのか、霧は身体全体を笑う様に震わせどこから出しているのか分からない声で語りかけてきた。
「七年間借りしてたんだから一目で分かれよ。つってもこういう顔合わせは初めてだし仕方ねーか?」
 見た目の不気味さとは裏腹のその馴れ馴れしさが尚一層、気持ち悪さを実感させる。
 ふぅと一つ息を吐き、下腹に力を込めて改めて正面からソレをにらみ返す。
 霧は不定形のクセに妙に人間くさく、肩をすくめた。
「あのガキ以外にも僕に寄生してるとはね。というか、さっきの格好はなんだ」
「冗談だよ、冗談。人格の雛型も必要だったしな、ついでだから色々遊んでみた」
「はっ。で、お前は一体何なんだ」
「答える前に一つ訂正だ、アンタの中にいるのはずっと俺だけさ。あれは、そうだな、アンタの良心の呵責が産んだ幻だ」
「はぁ?なんで僕があんな奴に呵責を覚えなきゃならないワケ。別に僕が殺したわけでもないのに」
「知るかよ、すくなくとも心臓に宿った人格だの亡霊が憑いてるだのなんてややっこしい話じゃない。そんな都合の良い話があるわけねーだろ。イリヤスフィールの人格は煙が風に吹かれたみたいに消えちまってるのさ。今は泥のフィルター代わりにしかなってない」
「ま、どっちでもいいさ。話を戻すが、お前は何だ」
「人類限定超絶最強大殺戮神様だ。俺に勝ちたければ―――犬か蜘蛛を連れてこい」
「だっ―――さ―――?!」
「正確にはその切れっ端なわけだが。ま、悪魔でも神様でも好きに呼んでくれ、もしくは極悪人」
 世界の敵でもいいぜー、と靄は笑う様に震えた。
 とても残念な奴のようだった。
「それじゃ次の質問だがお前は何でここにいるんだ、極悪人」
「再び訂正だ、俺がここにいるんじゃなくてアンタがここに来たんだ。渡し賃はちゃんと持ってきたか?」
 そう言って霧が右に五本、左に一本指を立てる。
 六ということらしい。
 六文銭と、そういうことらしい。
「つまり、なんだ。僕は死んだのか」
「まーな。死んだっつーなら生物としては七年前にとっくに死んでるけどな。知ってたか?」
 一寸の間、呆然としたがそのいかにも愉しそうな霧の様子が癇に障って逆に頭が冷えてくる。
「そりゃ、自分の体のことだからね。あんなことがあったんだからそれ位アリかと思ってた」
「たしかにそれが原因だが偶々ってわけじゃない。アンタ、あの時死にたくないと思っただろ。あの時から魔力を操り糸代わりにアンタは自分の体を動かしてたわけだ」
「忘れたね。そうだとしても体が死んでちゃ片手落ちだ」
「そうかい?自我があって自由に動かせる身体があれば生きてるのと一緒だろうよ」
「別にお前と哲学を語る気はないよ」
「今となっちゃどうでもいいこったな。それにもういい時間だ。話題もこれで最後にしようか」
「なんだよ」
「アンタさぁ、自分が誰かから恨まれてると思うかい」
「色々やってきたからね、そりゃ恨まれてるだろうな」
「それで今まで生き長らえて、つぅか死に損なってきたわけか。厚顔だねぇ」
「霞食べてる訳じゃないんだから、普通に生きてても恨みくらい買うにきまってるじゃないか」
「いやいや、百人規模でぶっ殺そうとした人は言うことが違うねぇ」
「あの頃のことを言ってるんなら、ふん、僕の命の為だ。誰だって殺されそうになったら殺し返すに決まってる」
「手前から首突っ込んで関係ねぇ連中巻き込んでそりゃないだろうよ。アンタ、やっぱろくでなしだな」
 靄はそう言うと立ち上がり出入り口である引き戸を開けながら電燈のスイッチを落とした。
 他に明かりもない病室は当然、暗闇に包まれる。
「おい、なんで消すんだよ」
「アンタも入院長かったんだから分かってるだろ。もう消灯だ」
「そうか、消灯か」
「そうそう。消灯時間ですよ、消灯時間」
「そうとなればさっさと失せろ」
「いい夢見ろよ」
 ひひひと笑い声にまぎれて僅かに引き戸を閉める音が耳朶を打つその直前、ぬたつく泥の様な暗闇の隙間からちろりと皮肉気な視線を投げかけられるのを感じた。 一人になり試しに目の前に手をかざしてみたがそれを見ることも出来ない。 ふん、と鼻を鳴らし近いのか遠いのか距離感もつかめない天井を見上げる。
「死にたくなかっただって?」
 出した声は響くこともなく吸い込まれるように消えていく。
「当たり前じゃないか。誰も死にたくなんてないっての」
 そんな誰に聞かせるつもりでもない呟きに呼応するようにざわざわと周囲の暗闇がさざめきだした。そのざわめきは反響するはずのない部屋の中で反響を続けはっきりと言葉の体を為し始める。いつもの如く呪いの言葉。死ね死ねとせっついてくる正体のない怨嗟。しかしそれも直ぐに崩れ、ざわめきですら無くなる。もはや呪いの言葉でもなく意味のない囁きでもなくなったソレはこれまで以上に気味の悪い、薄らぼんやりとした不安のようにじわりじわりと皮膜から僕の体の内に染み込んでくる。七年前胸の内から肉が体を突き破ってあふれ出た時とは丁度順序が逆になる浸食に苛まれながら、頭のどこかにある間桐慎二を間桐慎二たらしめる脚本のようなものに虫食いが生じ、文章が落丁し始め、糊づけがはがれ頁が散り散りになっていくのを感じる。欠けた頁にはべったりと泥に濡れた紙が挿入され蟲のように呪いの言葉がうごめき続ける。
―――あー……死にたくない
 最後の言葉は声を出しているのか頭で考えているのか、もう分からなかった。

 二人を見送った後桜は大橋の手前でタクシーを降り再びがらんとしてしまった遠坂邸に向かって日暮れた大橋を渡りだした。
 振り返ってみれば、間桐邸焼失から半年。遠坂凛と時計塔のロード。ロードが帰国し遠坂凛。そしてここ数日は衛宮士郎と遠坂凛。あの屋敷に帰ってから、あるいは居候するようになってから一人になるのはほとんど初めてのことだった。とはいえ、また一月もしないうちに誰かしら管理者代行の魔術師がやってくるだろう。その一月がなんだかとてつもなく永いように思えて、少し踏み出す足が遅くなる。あそこが一人で住むに広すぎる、というわけではない。広さだけで言うのなら二十年近く過ごした間桐邸の方がもっと広かったし、生活するという点ならば比べるべくもない。
 そうこうするうち中ほどまで渡り、ふと立ち止まりポケットをまさぐり手に当たったジッポーを取り出すと華美な装飾のなされたケースが掌の中で夕暮れの光を乱反射させている様子をしばらく見つめ、蓋を跳ね上げフリントに親指を押しあてた。しかし着火させることはなく蓋を下ろす。パチンと閉じられたジッポーを掌で少し転がした後、目の前の欄干にそっと置く。手を放してもジッポーは風にあおられることもなくそこに直立していた。歩道側に落ちればもしかしたら誰かが拾うかもしれないし、未遠川に落ちればもう誰にも見つけられることなく朽ちていくだろう。
 水柱を立てゆらゆらと光の届かぬ汚泥の中まで沈んでいくその様を頭に描きながら、間桐慎二を重ね合わせる。
 六年ぶりにあった彼にはかつて彼自身を包んでいた自分の才能の限界、有無さえ客観視できずにいた事に起因する幼児じみた万能感は幾らかなりを潜め、代わりに面に出ていたあれはなんだろうか。暇つぶしと吹いていた雁夜叔父の最期について思うところはなかったのだろうか。かつてまるで興味がないと言いきった母の系譜を探るといった行動の根本はなんだろうか。
 疑問はいくらでも吹き出てくる。
 けれど―――
「もう関係ありません」
 ジッポーをそのままに再び歩き出した間桐桜はその後二度と振り返ることもなく遠坂邸までの道程を帰って行った。



 それからしばらくジッポーはその場に立っていたが不意の風に煽られ欄干から転げ落ちた。

 
  back next

二次創作へ