「遠坂、教会にいるってさ」
 通話を切り冷蔵庫に買い込んだ食料を詰め終わりこちらに戻ってきた桜に告げると桜は、教会、と首をかしげる。
「教会になんの用でしょう」
「さっきの揺れのことらしい。どうにも危なっかしいみたいだから桜はココで大人しくしてろよ」
「あれ、先輩どこいくんですか」
 先ほど脱いだ上着を再び着こみ出かけようとする俺に桜が不思議そうに声をかける。
 ん、と振り返る。
 んー、とそのままで少し悩む。
「鬼退治?」
「鬼退治?」
 俺の答えに、桜はオウム返しに聞き返した。
 昨日、郊外の森の中で遠坂は協力すると言ってくれたし今さっき気をつけろと言われたばかりだがこのまま座して待つようでは衛宮の名がすたるしエミヤにも背を向けることになる。だから今はとにかく、走らなけりゃ始まらない。
 桜に心配させるのは些か以上に心苦しいが。せめて顔だけでもすまなそうにして今度は体ごと向き直る。
「ああ、鬼退治。だから、桜はココにいるんだぞ」
 けれど桜は少し怒ったように首を振る。
「ダメです」
「ダメって……。一緒にくるつもりか」
「いいえ、行っちゃいけません。危ないことはダメです」
「悪い、聞けない」
 桜は一層強く、首を振る。
「ダメですってば。女の子なんですから」
「心は男だ」
「女の子、です」
 一歩、桜がこちらに歩み寄る。止める間もなく、二歩三歩と更に近づき手を伸ばせば届くところでようやく桜はとまった。
 それを俺は見上げる。高く見上げる。
 桜は俺の手を静かに包み込む。二回りも小さな手を、いくら剣をふるってもちっとも硬くならない手を強く握りしめる。
「先輩の手は、こんなに小さいじゃないですか」
「別に剣を取れないほどじゃない」
「先輩の手は、こんなに柔らかいじゃないですか」
「別に剣を振れないほど軟な訳じゃない」
「先輩の肩は、こんなに頼りないじゃないですか」
「別に他人を背負えないほど狭くはない」
 桜は、少し首をかしげて困ったような笑みをつくる。
「私、先輩のことが心配なだけです」
「ありがとな。でもさ、ほら、俺はこんなだから」
「……もう。ちゃんと帰ってきて下さいよ。兄さんが帰っちゃって食料が余っちゃったんですから」
「うん、朝までには戻るよ」
 約束ですよ、と桜が念を押すように手にさらに力を込める。
「兄さんが言ってました。先輩を縛るには約束が一番だって」
「む、あいつ余計なことを」
「ねえ、先輩。私、待つのには慣れてますけど、慣れてるだけで好きな訳じゃないんですよ。だからずっと待ってるなんて嫌ですよ」
「大丈夫だって」
 軽く笑って手を振って、遠坂邸を後にした。

 タクシーを拾って約一時間、郊外の森の震源地と思しき場所の近くに到着した。当て推量だが、外れたところでもともと候補自体も数ヶ所に絞られているわけだからそう困るものでもない、それでも一般の調査が来ないうちに済ませたいということもある。白昼とはいえ幸い郊外であるし揺れを感じ取ったほぼ全員が小規模な地震とでも思っているだろうから直接的な手段ではなく、すべてが終わった上で書類上での隠蔽が行われるであろうことも想像に難くない。
 運の良いことに俺の勘は的を射ていたらしく森に踏み込んで十分と歩かないうちに隠す暇も余裕もなかったであろう神秘や戦闘の痕跡がそこかしこに見えだした。
 なぎ倒された木々や踏み荒らされ、粉砕された地面をみればどのようにして彼らがここで戦闘行為を実行しどちらへ向かったのかも手に取るように把握できる。足元に気をつけながら進んでいくとその内にT字型をした、奇妙なものが目につくようなってきた。一つ拾って眺めてみると、どうやら代行者が使うという黒鍵の柄らしくよく探してみれば刀身のぶち折れたものも見受けられる。
 遠坂の話によれば代行者にとってはシンボリックな武器で上級者ともなれば刀身を魔力で編み普段は柄のみを携行する、とかなんとか。とはいってもその扱いの難しさと物理的破壊力の低さから愛用する者も少ないとも。
 つまり、ここで戦闘を行ったのはそれなりの代行者であり、なおかつ少なくともここまでは死徒の方も劣勢ながらも抗しえていたということか。
 地面に刺さった黒鍵のうちの一振りを引き抜き軽く振ってみるが、やはり普通に刀剣としては扱いにくい。それではと、力を込めて近くの立木に投擲してみるもくるくると回転しカインと硬い音をたててはじかれ情けなく地面に再び横たえられた。柄のみの黒鍵に強化の要領で魔力を通してみるも何も変化は見られない。
「信仰がたりないのかな」
 ふむ、と少し唸って先に進む。そうしてしばらく歩く内にいかにも真新しい、それこそほんの一時間ほど前に付けられたような足跡が今自分が向かう方向に続いていることに気がついた。どのような目的をもってかはわからないが自分よりも先にここに足を運んだ人間がいるらしい。森を歩くには向かなそうな靴跡は往復で二組。おそらくは男女二人組だろうが男の方の足跡はなぜか帰りの分が僅かに深くなっている。結局その足跡は震源地らしき場所まで続いていた。ここで何かを調べていたらしく足跡は様々な方向に向いていたが、足跡が深くなりだした周辺を調べてみると、隆起してできたのであろう谷間におびただしい血痕が付いていた。更に目を凝らしてみればかろうじて原形をとどめているものからそうでないものまで含めて、人間の破片もそこいらに散乱している。ここで戦闘が行われたのはこれで間違いないだろうが、さて。
 足跡の主達は教会の関係者かとも思ったがそれならばここまでに俺が見つけた黒鍵もすでに回収されているだろう。
 となると一般人。しかも無事に帰っているということはその時点で既に死徒はいなかった、ということか。
 それは、どういうことか。
 死徒は、あるいは彼らは、勝ったのか、あるいは負けたのか。
 そんな事を考えながら震源地の中心、切嗣の設置した爆弾の中心に手を触れ、回路のスイッチを起こす。
「―――同調、開始」
 馴染みのスペルを口ずさみ、ここに至りここから至る地脈の表層を解析する。
 やはりというか、状況はかなりひどい。結構な範囲で地脈に傷が付いている。
 ニトロを詰めたパイプをハンマーで殴りつけたようなものだから、むしろあの程度の揺れで済んだことは重畳ともいえる。
 むしろ荒れた地脈の影響でこれから起こるであろう霊障の方が心配になってくる。遠坂が昼に言っていたとおりこれからは地脈の修復で忙しくなりそうだ。
 それにしても改めて、
「無茶苦茶だ―――」
 回路を閉じ独りごちる。今の今まで手をあてていた場所には俺の手のひらより一回り大きな拳の跡がくっきりと刻みつけられている。疑う余地もなくこれは死徒のものだろう。精緻な術式や微細なバランスなんてあったもんじゃない。ただ思い切り殴りつけただけでこの地下に溜まっていた火薬に火をつけたのだ。自分もその爆発に巻き込まれることも承知の上で。もちろんそういう状況に追い込まれたこと自体手落ちではあるが。銃火器を好むといった遠坂の言葉から純粋な身体能力はどこか侮っていたが、やはり最後に頼みとするのは自分の五体ということか。
 しかし分の悪い賭けだ。悪すぎる賭けだ。ハイリスクローリターンにもほどがある。
 そもそもこの状況ではその賭けの結果すら分からない。
 しかし、この拳が敵に向かって振われたならそれはまさしく必殺の一撃になるだろう。
 どちらにしろ、死徒が生き残っていたとしても今ならばほぼ死に体だろう。
 死徒の拳が振われる前にこちらが必殺の一撃を繰り出せれば勝機は、ある。
 
 きた道を戻り、森を出る。タクシーはすでに帰らせていたのでまた拾えるまで歩くことにした。坂を下りながら街の方に目を向ける。夕日も半分以上その姿を水平線の向こうに沈め、空の半分は夜の帳がおりかけ徐々に街にネオンの光が広がり始めている。もし死徒が賭けに勝っているならば今頃は食事を探していることだろうから、こうも静かではないはずだ。ああ、いや。子からの供給に任せてじっと身を潜めているのかもしれない。
「そういえば子の数はどれくらいなんだろうか」
 いくらなんでも情報が足りないな。やれやれと頭を掻く。
 大人しく戻って遠坂が帰ってくるのを待って、そのあとは、何年かぶりに夜のパトロールにでも出てみるか。
 そう思って気持足を早めたところで携帯電話の着信音が鳴りだしたので深く考えずに受ける。
『衛ー宮くーん』
 撫で切るような赤い声がスピーカーから耳朶を打つ。
 迂闊だった。久々にゾワゾワとした悪寒が背中を駆け上がる。
「と、遠坂」
『何を先走ってるのかしらぁ』
「い、言い訳を」
 しかし、こちらの言いわけなどハナから聞く気は無いとでも言いたげにぐあーっと遠坂はまくしたてる。
『単体で死徒と交戦できる魔術師なんてクイーン位、大体今の限界が分からないくせに突っ走ってるんじゃないの。それにここで代行者が死徒と接触したのならもう聖堂教会の仕切りなんだから魔術協会側の私たちが軽々に関われるわけないでしょ。そもそもいつ不備が起こるかも分からない体で何するつもりよ。今無事だからって一秒後に生きてる保障はないのよ』
「あ、あう」
 そこまで言って遠坂は一呼吸間をおく
『それに協力するって言ったでしょ、なに?私のこと信用してないわけ?』
「すまん」
『もう―――ま、いいわよ。何事もないのは分かってたんだけどね、文句だけは言わせてもらったわ』
「ん?どういうことだ。死徒がここらにいないって知ってたのか」
『ああ、それももう解決したわ。私の前で塵に還ったわよ』
 ちょっとばかり言葉の意味を咀嚼しかねる。
 さらにもうちょっとばかり間をおいてから、すこんと気が抜け「……え」と間抜けな声を立てた。
「……え、何。遠坂が死徒ぶっとばしたのか」
 腰と体重と勁の練られた最高の一撃で、こう、ずごんと。
 う、俺が死徒に一太刀入れる姿よりよっぽど明確にイメージできてしまう。
 しかし遠坂は呆れたように「バカ」と言って、
『んなわけないでしょ。代行者がやったのよ。分かってたけどやっぱり凄いわね、あの信仰心。正直頭が下がるわ』
 死徒は賭けには勝ったが次の場で全部すったってわけか。
「なんだ、結局無駄足だったのか。遠坂もさっさと電話くれたらよかったのに」
『今の今まで圏外にいたのはそっちでしょ』
「重ね重ねすまん」
 携帯電話に対して頭を下げながら会話を続ける。
 どうやら遠坂は既に遠坂邸に戻り固定電話からかけてきているらしい。
 桜は俺のことを包み隠さず遠坂に伝えているようだった。姉妹仲がよろしいようで実に結構。ジーザス。
 しばらく俺が謝ってばかりいたが桜がその場を離れるのを契機に話題は間桐臓現のことに移った。遠坂としてはあまり聞かせたい類の話でもないらしい。
「犬?」
『慎二の話を信じるならね。桜の体からはじき出されて間桐の蟲蔵も燃やされて無力この上なくなって仕方なくとか、そんなところでかしら』
「そういえばそもそも、なんだって臓硯はあそこまで思い切ったことをしたんだ。聖杯戦争を解体するのにロードが動いているのを聞きつけて自暴自棄にってわけじゃないよな」
『それに関しては、例の死徒が噛んでるじゃないかと思うけれど』
「あれ、ソイツがこの街に来たのって二週間前かそこらって言ってなかったか」
『どうもこうも、そもそもその情報自体が真っ赤な嘘なのよ』
「……もう少しきちんと説明してくれ」
『多分死徒はもっとずっと前、それこそカレンがこの街を出て入れ替わりにマルコ神父が赴任してすぐに入れ替わってたのよ』
 結局、死体なんかなかったし、と電話口で遠坂が呟く。
『正確には私が面通しを済ませてマルタに管理を委任してからでしょうね。あの子、人がよすぎたのよ。魔術師としては不適切極まりなかった、それこそせっかく入学した時計塔をドロップアウトしてしまうくらいに。海千山千の死徒からすれば騙すことも殺すこともあんまりにも簡単すぎたでしょうね』
「で、この度ついに聖堂教会に捕捉されたわけか。でも結局それだってマルタやアンネを殺す意味がないだろ。それに実際に臓硯に襲われたわけだし」
『臓硯のあの行動は私たちにやられることが目的だったのでしょうね、死んでしまえばもう容疑者にはならないわけだし』
「つまり死徒は二人の殺害を臓硯の仕業にしたかった、ってことでいいのか?でもそれだとやっぱり臓硯がその策にのって俺たちを襲う理由が……ああ、いや。仮に臓硯と死徒が争っていたとしたら自分が死んだことにした方が都合が良かったわけか」
『多分、ね。桜を文字通り隠れ蓑にする気だったんでしょ。その晩にあんたに手を出したのは、桜の中にいることに気づかれるのを恐れたんでしょうね。……そういうことするあたり、私は気付かないと踏んでいたってことだけど』
「遠坂、桜に対しては節穴だからな」
『ふん』
 軽く笑って通話を打ち切る。
 もう既に日は落ちきり、街灯が路地を等間隔で照らし出していた。
 先ほどの遠坂の話に確かな根拠は何もなく穴だっていくらでも出てくる。
 例えば、死徒が何年も聖堂教会ゆかり神父になりすます理由は?
 例えば、死徒が臓硯と争う理由は?また、そうだとして絡め手を使う必要は?
 もちろんそんな事くらい遠坂も分かっているだろう。そもそも死徒が始末された時点でその裏を探っても何の意味もない。
 しかし一難去って、というわけでもないが未だ街には間桐臓硯が徘徊しているわけか。
 どちらにしろ、パトロールはやった方がいい、うむ。
 そうこうするうちに柳洞寺の近くまでやってきていた。
「そしてタクシーどころか人っ子一人いやしない」
 まあ、七年前とは比べるべくもないが十分以上に物騒な訳だし、日も暮れてからこんなところにいるのは通り魔か柳洞寺の修行僧くらいだろーか。場合によっては魔女くらい拾えるかもしれない。この姿で一成に会うわけにはいかないがせっかくだし参拝くらいしてみようか、なんて長い階段を目の前にして考える。

――――呵呵呵呵

 不意に、どこかで、犬の嗤い声なんてあり得ないものを聞いた気がした。
 ついで街灯で照らし出されるスペースからはずれた暗がりからずるりと、影が質量と大きさをもって立体化したように黒い犬が現れた。
 二メール近い巨躯がドーベルかボルゾイ種のように引き絞られた筋肉に覆われていることは遠目にもよくわかるが、しかし異常なことにそこには瑞々しい力強さ、生命力の迸りといった輝かしいなにがしかはまるで存在しない。それどころかその対極の極性ばかりが伝わってくる。間違いなく、これが間桐臓硯だ。
 その犬の白く濁った眼球と視線が絡むのと犬がこちらに向かって駆け出すのと俺が夫婦剣を投影し駆け出すのは、そのどれもがまるで同時だった。
 そして大きく広げられた犬の牙を左の莫耶で食い止めるのと右の干将で犬の腹を裂くのもまた、まるで同時だった。
「―――っ」
 しかし腹からあふれ出たのは流血でも内臓の類でもなく、ぬめぬめと淫猥な照り返しをする不気味な蟲の群れだった。まるで滝のようにあふれる蟲をもろに浴びた右手に激痛が走る。右手に喰いついた蟲を振り払いざま莫耶に噛みついたままの顎に膝を見舞う。
 僅かに緩んだすきに引き抜き、距離をとる。右手は血が流れ肉が裂けているもののもう蟲はついていない、五指は動くし力も入る、戦闘に支障はない。無論それは臓硯同じようだ。裂けたはずの腹は既に塞がり足元で蟲どもがキィキィと不快な鳴き声を立てている。
 しかし、前回対峙した時の不気味さは感じられない。
 数百年を生きたはずの魔術師がもつあの瘴気じみた気味の悪さがまるでない。
 あの怨念じみた執念がまるでない。
 再び、交錯する。
 すれ違い様に何度もその体を切り裂くが、やはりその断面は蟲に溢れ息をつく間に再生していく。
 おそらくだが、もはや間桐臓硯に自我はない。例えあったとしても確認する術はない。
 干将莫耶を放物線と平行にそれぞれ投擲する。それらに追いすがる様にしながら新たな夫婦剣を投影する。
 右か左か。ぎりぎりまで臓硯の動きに目を凝らす。
 臓硯は投擲した干将莫耶を十分に引き付けてから右に避けさらに強引に向きをかえこちらに低く飛びかかってきた。
 動きを止めず倒れこむような不格好で、その首に切りつける。
 が、僅かに食い込んだところで刃が動かなくなる。
「―――っく」
 絶望的なまでの非力。いくら鍛えても鍛えきれない今の体がここにきて足を引っ張った。
 しかし、ここで畳みかけなくては。遠坂がいれば援護も望めるのだが、居ないところで期待しても始まらない。
 動かなくない莫耶から手を放し残った干将で足を薙ぎ払いとりあえず動きを止める。
「―――投影、開始」
 再生するほどの間も置かず先ほどの黒鍵を刃付きで投影する。悪魔払いの護符だというのなら効果のほども期待できるだろう。
 喰い込んだ莫耶と肉の間に突き立て全体重を乗せ強引にその刃を差し込む。
 ここにきて、今までこちらの攻撃にまるで苦痛を示さなかった臓硯が今度こそは悲鳴をあげる。
 確かな手ごたえを感じた途端、その体が形を失い現れた時と同じように陰に溶け込もうとする。
 このままでは取り逃がしてしまうと、焦りと緊張が体を支配する。その時、夜空から月光を受け奇妙な輝きを放つ硬質の鳥がこちらに向かって風切り音を立てながら急降下してきた。それがどういうものかを確認する前に直感的にそちらに手を伸ばす。俺の手前で急速に速度をゆるめたその鳥は鷹匠の鷹のように腕に着地した。ひやりと、夜気に冷やされた冷たさが俺の腕を伝う。
 その冷気が俺の体温に温められるより早く宝石で出来たその鳥はその姿を変じ、一個のルビーとなった。ここでようやくそれが何を内に秘めた物かを自覚し迷うことなく不定形となった臓硯に向かって投げつける。
「―――Flamme der Säuberungen」
 頭に浮かんだ呪文を唱え終わると遠坂によって既に完成されていた術式が発動しルビーを中心にごうっと音と立てて火柱が上がり陰に消えようとしていた臓硯が燃え上がる。
 しばらく悲鳴じみた叫びが響いていたが鎮火する頃にはもはやそこには何も残ってはいなかった。
 犬も蟲も叫びも、おそらくは臓硯の本体も塵すら残さずその魂までも燃え尽きてしまった。
 事が済み今更ながら右手の痛みに顔をしかめたところで、タイミングよく携帯電話から着信音が流れ出した。たどたどしくも左手で受けてみると案の定遠坂だった。遠坂はいくらか心配そうな声音で問いかける。
『どう?間に合ったかしら』
「最高のタイミングだった。計ってたのか」
 俺の軽口に安心したのか電話の向こうでほう、と息をつくようにしてから
『まさか。たまたまよ。なんとなくだけど、士郎ってばそのまま臓硯探しに街に出そうな気がしたから念のため持たせようとしただけ』
 こんなに早くつかわれるとは思わなかったけど、なんてこぼす。
「心づかい痛み入るね―――。とりあえずこれから戻るから包帯とか用意しといてくれ」
『あら、怪我したの』
「右手を齧られた」
『女の子の軟肌なんだから気をつけなさい。男の感覚のままじゃすぐに傷だらけになるわよ』
「いや、それは別に構わないんだけど」
『あんたが傷つくと私が泣きたくなるじゃないの』
 なんだか拗ねたように遠坂は言う。
 ありがたい話だ。くすぐったいような感覚に体が震える。
 月明かりに赤く染まった右手をかざしてみれば、なるほど、改めてやわらかそうな手が強調される。これでは遠坂や桜に心配されるのも道理だろう。
 しかし、こんな手でもやっぱり剣を取れるし振るえるのだ。こんな手でも祓い、守ることができるのだ。
「―――いや、もう」
『なによ』
「最高」
 くくくと笑う。
 やはり遠坂の言うとおり認識こそが一大事。
 身体がどうであれ俺が男である事実はその一点にのみ依るのだ。
 俺が本当に心身ともに女になることがあるとしたら、それは男に貫かれた時なんかじゃない。
 剣を手放す時だ。
 守ることを諦めた時だ。
 それらが俺の手の内にある限り、俺は男だ。
「遠坂」
『ん?』
「大好き」
『私も』

 いや、もうホント、最高。


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