「兄さん、早まってはいけませんっ」
 見事に抜ける空の下、冬木市某病院の屋上に間桐桜の叫びがこだました。
 対して彼女の兄であるところの少女、間桐慎二はまるきり愚か者を見る目つきでついでにふうと口腔に含んでいた煙をその顔に吹きかけて口角を金釘のように吊り上げハンッといつものように嘲笑う。
「何言ってんだよ、桜。前から思ってたんだがお前はトロい上にバカだねぇ」
 けほけほとせき込みながら桜はむぅと慎二を睨みつけ、その口にくわえられた煙草をかすめ取りふみ消す。しかし慎二は少しも気にせず新たに煙草をつけてフェンスに背中を預ける形で寄りかかった。ほんのひと月ほど前なら桜はそんな事をしなかったろうし慎二は桜を殴りつけていただろうが、あの日から状況はだいぶ変わっていた。健全ではないが良好な関係には、なっていた。
「それで、全体何をそんなに慌てていたんだ。まさかとは思うが僕が飛び降りるとでも思ったか」
 桜はそうですよ、と漏らしてから疲れたように溜息を付き慎二に倣うように体重をフェンスに預ける。
「一本下さい」
「女が煙草吸うな。みっともない」
「兄さんだって今は女の子でしょう」
「僕は男だ、お前が一番分かってるだろう」
「ええ、よぅく知ってますよ。いいから下さい」
 いかにも渋々といった感じで慎二が差し出した煙草を咥え慎二が差し出したライターに手で風をさえぎり顔をよせ火をつける。と思えばげほげほと先ほどよりもよほど派手にせき込む。目に涙を浮かべながら一層深く吸い込み再びせき込む。そんな妹を呆れ気味に見ながら煙草の灰を払い落す。
「吸えないなら止めろよ……。なんだ、お前の方こそ死にたいのか」
「死にたくなんてありませんよ。ただ、嫌な物見たんです」
「遠坂と衛宮のラブシーンでも見たか」
「そんな所です。それで愚痴を言おうと来てみれば兄さん病室にいないんですから。てっきり世を儚んで飛び降りでもしたのかと、慌てちゃいました」
「だから、何でそうなる。僕がそんなことする理由なんてないだろうが」
「えぇー……何言ってるんですか。もし私が男になったらすぐに手首切りますよ」
「ふん。せっかく回路が開いたって言うのになんで死ななくちゃならないんだ」
「それが理由になるんですか?兄さん、前の自分に未練はないんですか」
「今の方がましだ。お前こそ暢気にしてていいのかよ。もう間桐にお前の居場所はないんだぜ」
 今一つ言葉の意味を測りかねるように首をかしげる桜に慎二は言葉を重ねる。
「お前は結局僕の代理品だったんだ。だから十年もかけてお前を間桐に仕立て上げた。だけど、はは、かわいそうな事にそれは丸きり無駄に終わったわけだ。僕に回路が開いた以上当然間桐の跡取りは僕だ。いいか、おい。もう、お前の居場所はないんだよ」
………っ」
「だから、とっとと出て行けよ。好きな所に行っちまえ。お前は、もう、要らない………おい、なんで笑ってるんだよ」
「だって、あっはは。何言ってるんですか兄さん。そんなことあるわけないじゃないですか。まあ、百歩どころか万歩譲って兄さんが間桐の跡取りになったところでどうやって魔術師になるんですか。御爺様はもうあんなだって言うのに誰に魔術を習うんです?ふふふ、兄さんが魔術師になれるかどうかは私にかかっているのですよ」
―――お前に習うくらいなら遠坂に弟子入りしてやる」
「それこそお笑い草です。兄さんがそんなことできるわけないでしょう」
「それでも、お前に教わるなんてことよりも大分ましだ」
「まあ、ついでに女の子としての作法というものを伝授してあげましょう」
「習わないって言ってるだろ」
「どうせだから髪も伸ばしましょうよ。お揃いですよお揃いー」
「聞けよ、おい聞けよ」
「とりあえずスカートを履くところから始めましょうか」
「あれか、もしかして楽しんでるのか。むしろ嫌がらせでもしたいのか」
「あ、それいいですね。面白そうです。ふふぅ、覚悟してください、完膚なきまでに女の子にして差し上げます」
 愉快そうに笑ってすっかり短くなってしまった吸いがらを踏み消してそれでは、と桜は屋上を後にした。
 再び一人になった慎二がぷかぁと煙を吐くと、ゆるやかに立ち昇りやがて吹き散らされてかき消える。しばらく空を見上げた後身体を返してフェンス越しに下を覗き込む。この病院は五階建て、下に人影は見えない、フェンスは楽に乗り越えられるような高さ。―――早まってはいけません。桜の叫びが蘇る。ほとんどフィルターだけになった吸殻を下に落として右に左に風に吹かれる様をじっと見る。吸いがらがアスファルトに着地さらにいずこかへところころと見えなくなるまで転がっていくのをみるとがしゃがしゃとフェンスをよじ登り縁に立つ。下から吹き上げる風に入院生活で少しばかり伸びてきた髪が煽られる。
 さて、果たして。
 先ほどの言に嘘偽りはなかったか。
 自問しても答えは返ってこない。
 間桐慎二はついこの間までソレを得ることを何を引き換えにしてもいいと断言できるほどに渇望していた。ならば現在の状況は喜んで受け入れるべきではないのか。否、違うと。片隅で反駁する。
 優性たる己のために、超常の徒としての己のために、本来己が得るはずだったものを横取りした上でソレを疎んじている妹を、己を屑と断じた祖父を、ありとあらゆる意味で己を無視したこの世界を、そう言った間桐慎二にとっての不条理を根こそぎ散りはらうためにソレを欲した。
 だがそのために、間桐慎二がいなくなっては意味がない。人間は周囲からの観測によって初めて個人としての存在を得る。ならば、今の自分を間桐慎二だと観測し得る人間が何人いる。そんなもの片手で足りるほどしかいないし一人を除いては間桐慎二に興味を持ってはいない。残る一人も間桐慎二としてよりも今のこの体になって得た、胎盤としての機能だけを望んでいる。
 自分自身での観測などもってのほか。そんな内にこもったままでは依然なんの変りもない。ならばいっそ―――
 じっとりと汗のにじんだ手でしっかりとフェンスをつかんだまま下をのぞき込んでいたかと思うとふと身体の向きをフェンスと平行に変え手を離す。何かしら思い出すように5,6メートル向こう側の縁の端を、そこに誰かがいるかのように睨みつけ、そして、一つ息を吸うと脚を踏み出した。

 あの赤い少女をぼんやりと浮かぶ。いつかこのように校舎の屋上に立った。あの時はその場から動けなかった。しかし今ならば、なんとなくだがあそこまで行けるのではないだろうかと思えた。それでどうなるというわけでもない。そうなったところで間桐慎二が消えたことに変わりはない。しかしそれができれば今のこの身を自分は肯定できる気がした。誰かに認めてもらえる様な気がした。
 そんな曖昧な期待を胸に彼女は足を進める。
 半分ほど歩いたところで突風に煽られ体が大きく揺さぶられる。必死の形相でなんとかバランスを保つと心拍が元に戻るのを待って再び動き出そうとする。しかし、動かない。まるで泥の中に踏み込んだ様に足が離れない。どころか、風も吹いていないのにぐらぐらと体が揺れだす。それだけが原因でもないだろうが目に見えて呼吸が荒くなる。しばらくその場で蹲る様に固まっていたが、やがて意を決したように再び一歩を踏み出した。
 そうしてついに到達し、少女は冷汗をぬぐい、人心地つくと病室へと戻るため再び金網をよじ登った。

……兄さん、個室だからって病室で吸うのは流石に止めましょうよ。怒られますよ?」
「煩いね、まったく。屋上で吸おうが病室で吸おうが僕の勝手だろうに。おっと灰が落ちそうだ。桜、手を出せ」
「嫌ですよ、何考えてるんですか。妹ですよーほらほらー、可愛がってくださいよー」
 笑いながら差し出された空き缶に灰を落とし半分ほどの長さになった煙草を再びくゆらせる。
「桜、お前さ」
「はい」
「本当に間桐にまだいるつもりか、遠坂や衛宮の所に行くつもりはないのか。あいつらなら喜んで受け入れてくれるだろ」
 ぱちくりと音がしそうなほど目を瞬かせていた桜は胸に手を当て気を落ち着かせるように一つ息を吐く。

―――はぁ、驚きました。兄さんが私にそんなことを。でも、私は間桐から出て行く気はありません。というよりもあの先輩たちの傍に入れる程強くも図々しくもありません」
「ふん、今度は僕がびっくりだ。そう言う事をいう時点でお前は図々しいよ。桜、お前本気で言ってるのか?おいおいよしておくれよ。僕から一体どれだけ掠め取ったと思っているんだ」
「私のせいじゃありません。兄さんが手に入らないものばかり欲しがるのが悪いんです」
「そういうところが……!」
 さも当然のように返されて慎二は何か言いたげに拳を握りしめたが結局何も言わず吸殻を空き缶に落とし、箱が空になってしまったことに気づくと脇のゴミ箱に放り投げる。狙い違えて空箱は手前にぽてんと実に情けなく着地する。しかし特に気にする風でもなく
「桜、新しいの買ってこい」
「禁煙してください。煙草は身体に悪いです」
「だからいいんだよ」
 やれやれといった様子で桜が買ってきた煙草の封を切り銀紙を破り一本取り出し火をつけて深く吸い込み一言、
「ああ―――不っ味ぅ」
 だから言ったのに、と桜が笑う。
 煩いな、と慎二が笑う。
 双方がおそらくは初めて、何の裏も気兼ねもなく笑い合った。







「うおお………!?」
 自分自身の唸り声で跳ね起きる。なんだ、なんなんだ。今の夢は。
 いや、忘れよう。唯の悪夢だ。寝なおして朝起きる頃にはきれいさっぱり忘れている筈だ。
 なのに、横で寝ていた遠坂が大地に響く様な声で
「うるさいわね……
「悪い。気にするな、ちょっと変な、いや凄い夢を見ただけだ」
「ふぅん。どんな夢?」
「いやいや、思い出させるな。さっさと寝よう」
「何よ、気になるじゃない」
 むき出しの肩に体をすりつけながら遠坂が囁く。寝起きの少しばかり冷たい肌に聊かばかりにどぎまぎする。今更この程度の事であたふたするような事もない気がするが、今だ慣れない。学生の分際でこの状況に慣れてしまうのも余りよろしくはないと思うがとにかく遠坂は可愛いな、もう。
「ね、どんな夢」
「まず、慎二が女でな」
……は?」
「その女慎二と組んで聖杯戦争を戦うっていう、まあそんな夢」
「えっと、衛宮君、疲れたまってる?」
「疲れてるのかなぁ……
 疲れているというよりも単純に慎二の事が気にかかるのだろう。聖杯戦争が終ってからずっと入院し続けているようだがここしばらく見舞いにもいっていない。復学するという話も未だ聞かないし、桜との関係も多少改善されたとはいえその他のことは耳に入ってこない。ふむ。
「遠坂、今度慎二の見舞いに行こうか」
「ん、そうね。しばらく会ってないし経過観察といきましょうか」
「実験動物か、慎二は」
「魔術師、というか研究者としてはあんな無茶を仕出かしてしっかり人間としての機能を保ってるだなんて研究のし甲斐があるとは思うわね。ま、他に転用のしようのない事例なんて無駄もいいところだけど」
「その無茶のとどめはお前がしたはずじゃないのか」
「時間もなかったんだししょうがないじゃないの」
「それもそうだがな。ま、いいさ。じゃ今度行こうか」
「うん。あ、それとさっきの夢の話だけど」
 できればその話はもう終わりにしたかったのだがとりあえず先を促す。
「間桐君と組んでたのならその間私はどうなっていたの」
「あっと……
 覚えてはいる、が、しかし。そのまま言う訳にはいかない。
「普通にやりあって普通に勝ったよ」
――――あ、そう。普通に、ね。あーそー」
「なんだよ……
「ううん、別に。ただ、衛宮君は今の状況に何か不満があるのかな、とか」
―――凛」
「なによ、士郎」
「らぶ」
―――らぶー」

 さて、その一週間後に早速病院を訪れてみたのだが慎二の病室には「面会謝絶」と書かれた札がぽつねんと掲げられていた。それを見た瞬間足もとが喪失したような唐突な浮遊感に襲われる。気が付くと病院に似つかわしくない乱暴さでドアを叩き開ける自分が居た。しかしそこに妙に不機嫌な、それでも病弱さを感じさせない声が掛けられる。
「うるさいな、なんだよ桜。いいことでもあったのか?衛宮に頭でも撫でられたか手でも握られたか、それとも遠坂から寝取ったか」
 少しばかり声質が違う気がするがそれは確かに慎二の声だった。内心胸を撫で下ろしながらベッドに歩み寄る。
「何だ、元気そうじゃ」
 そしてベッドで呆気に取られたような顔をしている少女を見て言葉に詰まる。しばらくはどちらも凍ったように固まっていたが先に動き出したのは少女の方だった。何事かを喚きながら周囲の物を手当たり次第に投げつけてくる。ベッドに横たわったまま、しかも半分以上はあさっての方向に飛んでいくがそれでもたまったものではない。
 その様子を扉近くで静観していた遠坂はしばらく少女を見ながら思案したのち、
「落ち付きなさいよ。慎二」
 ぴたりと、その声を聞いたとたんに少女の動きが再び固まる。いわれてまじまじと少女を観察する。少々垂れ目の入ったひねた感じのベビーフェイス。慎二と似た色合いをした癖っ毛のセミロング。筋肉の気配が感じられない体つき。遠坂以上桜未満といったところの胸。慎二と共通項といえるような部分もあるし状況からすればこの少女こそが確かに慎二なのだろう。だけれど、そんな事があり得るのだろうかという俺の疑念は他ならぬ少女自身が払拭してくれた。
 もはや観念した様子の少女はぱたりとベッドに力なく体を沈め怨みがましくこちらを見ながら
「笑えよ、衛宮。愉快だろう、見ろよ、この顔。聞けよ、この声。欠片も元の僕なんて残っちゃいない。お前の女や後輩を貶めた奴がいなくなったんだぞ。おい――――笑えよ」
 なんて、凄惨とも哀れとも、もしくは心底腹が立つような笑い顔で言う慎二は改めてみれば女性になったとかそういう事を差し引いても随分と疲れているように見えた。
「なんだ、あれだ、大変だったな」
……ったく、だから僕はお前が嫌いなんだ」
 やはり不機嫌そうに慎二はいつも通りに愚痴をこぼした。
 そこでようやく話を聞くことができたわけだが、見た目以上のこと、こうなった原因だとか元に戻る方法だとかはわからずじまいであった。遠坂の行った魔術的診断に置いても最初に訪れたときと同じ、人間としての機能に何の不都合もなく性別の変化による影響も何もないということしかわからなかった。俺はと言えばその山脈のごとき胸囲に遠坂が憎しみの込められた視線を向けているのと鈍く光りだした魔術刻印を見て見ぬふりをすることしかできなかった。
 その後の不用意な一言によって惨状が展開され文字通り無駄に入院期間が伸びることになってしまったがしかし、慎二はそれでもどこか楽しそうな顔で病室後にする俺たちを罵倒交じりに見送った。ただ、扉を閉めた瞬間聞こえた幽かな吐息に妙な異臭を感じた。喉の奥、体の奥から立ち上る何かドロドロに固まったものの何ともいえないような臭気、例えるなら女性が我を忘れはじめ激しく早くなる呼吸に伴って胃の底から飲み込んだ空気とともに立ち上る臭いに似たものだが、その奥にもっと異様な何かが潜んでいる。
 腐敗のそれや地獄の底の硫黄や燐といった諸々のおぞましい何かを浮脂の様に硬く固まらせた何か―――そんな物が身体の最奥から吐き出されているような感じだった。はたして俺は今まで本当に慎二と話していたんだろうかという妄想にすら囚われる。
―――士郎?」
 脇から遠坂に声を掛けられ我に帰る。
 なんでもない、と返事をして考え過ぎだと頭を振って病院を後にした。
 だがそれは考え過ぎでも何でもないといやになるような騒動を伴って半年後に思い知らされることになる。

「最近、痴女が出るらしいわ」
 唐突に、本当に唐突に遠坂がそんな事を言い出した。朝食の席で。
「お前な……
「露出狂とかの類ではなく、被害者は男性だけど強姦魔、レイパー。最近昏倒事件が多いでしょ。あれ、比喩でも何でもなく精気を吸われているわ。中には死にかけた人もいるみたい」
「ああ、キャスターやライダーがやっていたのと理屈は同じか。魔力集め」
「そ、効率は激しく悪いけどね。本人の趣味か、そこまで大量の魔力は必要ないか」
「何か相手したくないな」
 微妙に飯が不味くなったような気が。
「私も。でも管理責任ってものがあるし、あと一年もしたらロンドンよ。外道、逸れに外れ者。放ってはおけないわ」
「で、つまり?」
「囮、やって頂戴」
「んー、やりたくはないけど死人が出てからじゃ遅いからな」
「悪いわね」

 とはいえ、である。
 深夜徘徊を続けながら考えるにつけ、もう少し効率のいい方法はないものか。俺の役割が疑似餌であるのは分かるがもう少し能動的に動かなければ。幸い死人はまだ出ていないものの実際、被害者も増え続けている。正義の味方としては早く何とかしたいものだが、手掛かりがなさすぎる。遠坂が被害者から直接読みだした記憶の中においても犯人については曖昧なイメージしか得られなかったという。
 そのイメージは蛇。
 遠坂の言を借りればニンフォマニアを例えるにはあまりにも順当過ぎるらしいが、俺はと言えばそんな艶々しいものとはかけ離れた随分と嫌な記憶が呼び起こされる。
 ライダー。騎英のサーヴァント。
 まあ、見た目は随分と刺激的な物ではあったがそんな事を言っている余裕はなかったし
「ああ、そう言えば、慎二元気かな」
 連鎖的に思い出された現在進行形で随分な目にあっているアイツは結局退院した後も家に引きこもり学校にも出ては来ていない。何度か会いにはいったものの結局会う事はかなわずその度、桜にすまなそうな顔をさせてしまうのは割に心苦しいものだ。事情は察するに余りあるし、多分俺でもあれは引きこもりそうな気がする。男に戻せればいいのだが具体的な手段が見つからない以上、これ以上精神を病むことのないようにカウンセリングまがいのことでも地道に続けていくしかない。
 結局今夜も何ら進展のないまま帰路に就くことになった。
 事態が進展するのはさらに二週間後、被害者の数が三十に近くなった頃だった。
「なるほど……蛇か」
 目の前の相手の印象は確かに蛇。垂れた前髪からのぞく瞳はメラメラと燐火が冷たく燃え白目はぎらぎらと血走り、その眼に見られただけで総身に痺れが走る。クックック……と笑うとも泣くともつかない声が口元から漏れたかと思うと袖から人の腕ほどもある白い蛇が飛び出す。その頭を見てぎょっとして思わず動きが固まる。平べったく赤い頭が五つ。それらが俺の腕に絡まりぎりぎりと締めあげられる段になってようやくそれが只の腕だということを理解する。
「この……!」
 引きずり倒そうとする相手を力任せに引き寄せて取り押さえようともう一方の手を伸ばす。
 ―――カハァッ
 と思わず顔を背けたくなるような生臭い息を顔面に浴びる。べろりと、桃色の舌で頬を下から上に舐め挙げられ、ちりちりとした恐怖から四肢の力が一瞬抜けおちる。それを見計らったかの様に一層増しの剛力で地面に押し倒される。両膝で腕を抑え右手で頬を逆さに何故ながらもう一方の手は俺の股間に伸びていく。なるほど、これでは一般人では後はひたすらもてあそばれながら鶏が鳴くのを待つばかりだろう。
 だが、しかし、俺は一般人ではないし、
 もちろん、俺を何処からか見張っている遠坂はそれどころではない。
―――Anfang
 闇の向こうからそんな声が聞こえたかと思うと今にもズボンを引きずり下ろしそうだった蛇の頭に何かがバキンと強烈な音ではじけ、のけぞったかと思うとそのままの勢いで俺の上に倒れ込んだ。呼吸は短く速い。がちがちと歯の根が合わぬほどに震え寒そうに身を縮こまらせている。さて、
「話を聞かせてもらおうか、慎二」
―――っはは。おい、衛宮。お前も随分と性格が悪くなったな」
「朱に交わればって奴だよ」
「そりゃあ、お前が意志薄弱なんだよ。いや、単純に我がないだけだな。この自動人形」
「なんだそれ、訳が分らないぞ」
 ふは、と鼻で笑ってそのまま慎二は気を失った。

「僕の中に蛇がいる」
 遠坂手ずからガンドを解呪され目覚めた慎二は理由を聞かれそう答えた。
「何時からか、多分退院と前後する頃だろうな。胸の奥からひりつく様な疼きが湧いてきた。最初のころは我慢も多少なり効いたが一月と経たない間にそれも限界になった」
「で、あの騒ぎって訳。男性を襲う事に抵抗はなかったの」
「毎度ことが終われば自己嫌悪に苛まれるね。ただ、最中はそんな事を考える余裕はない。蛇が目を覚ませばどんな手段を使ってでも疼きを収めない限り気が違ってしまう」
―――うん。なんとなく分かった」
「じゃ、とっととなんとかしてくれよ」
「魔術は理屈何だから準備もなしに出来るわけないでしょ。しばらく我慢なさい」
「はぁん?遠坂も存外……
「何よ」
「役立たず」
 ぱかんと一発豪快にはたかれて、同時に何かしらの暗示でもかけられたのか慎二は再びすとんと眠りに落ちる。さて、と遠坂は俺に向きなおり、慎二に握られた右腕を見せるように言ってきた。言われたとおり袖を上げると黒くくっきりと痣になった慎二の手形が現れる。痛みからして皹が入っているかもしれない。もちろん、男だった時でさえ慎二にこのような怪力は無かった。
「本当に何か憑き物の仕業なのか」
「そういう、獣憑きの類ではなさそうね。妙な物が入り込んでいるのは確かなようだけれど」
「何が入っているかはわからないのか」
「憶測になるけれど間桐臓硯の使い魔でしょうね」
「……自分の孫にそんなマネしたのかよ」
「魔術師にそういう倫理観は求めるだけ無駄よ。目的のために手段の是非を考慮しているようじゃとても根源まではたどり着けない」
「お前がそうじゃないってのは分かってるけど、そういうことを言わないでくれ」
 遠坂は贅肉贅肉と嘯きながら、それでもその眼には確かに義憤の類と思しき感情があった。
 もしかすると、桜に対しても何らかの害が及んでいるのかもしれないと考えているのかもしれない。むしろそちらの方がこの凄まじさにふさわしい。
「間桐の魔術が支配、略奪に特化しているとは聞いていたけれどあそこまで悪趣味な魔術だったとは知らなかったわ。臓硯の狙いは
女性になった慎二を使って確実に間桐の血筋を残すということ。昂ぶらせたのはその行為自体に対する嫌悪、忌避感を拭いとるため、といったところかしら。それも今のところは順調のようだし」
「どうすればいい」
「心霊治療の類は無理となると、間桐臓硯本人を叩くほかはないのだけれど。蟲を使って人質にでもされたらこちら側の身動きは取れない」
「搦め手で行く他ないか」
「長期戦になる上に相手は妖怪紛いの魔術師よ。直接戦闘となればこちらの圧勝でしょうけれど気を引き締めてかかりなさい」
「それはいいがその間慎二はどうするんだ」
「必要なのは精そのものではなくて蟲達が活動するに足るエネルギー、だったら他の何かで代用してあげればいい。ま、もしもの時は仕方ないわね。衛宮君、抱いてあげなさい」
「嫌だよ、大体遠坂は、その、いいのかよ」
「良くはないけれどね。つーか、絶対嫌。これからもどんどん女性化は進行するだろうけど、我慢しなさい。本当に最後の最後よ。その時は常に私の顔を思い浮かべて自戒しながらやりなさい」
「それはそれで不誠実だな」
「いい?あなたは私の恋人なんだから、いつだってそのことだけは忘れるんじゃないわよ」
「ああ、それだけは何があっても忘れないよ」
「よろしい――――ん、でもやっぱ、やだなぁ。桜や綾子相手だったらまだしもよりにもよって……
 言いながら眠りつづける慎二の額にぐりぐりと拳を押し付ける遠坂。ひときわ大きなため息をついて「まあ、しかし」と呟いてからベッドの脇に腰を降ろす。
「こいつも心底大変よねぇ。そう思わない?」
「まったくな、俺が女になったら―――どうだろな。遠坂はあんまりそんな感じはしないけど」
「まあね。とはいえ、異性の性衝動だなんて訳の分らない物にさらされてよくもまあ……
 確かにそれはこの上なくショックな出来事だ。
 自分の体の中に別の意志を持つような何かが存在し、自分の知らない激しい衝動、激しい感情が潜んでいる。そういう「未知の自己」に対する驚きや嫌悪感を慎二は蛇のせいだといつもの様に自分以外に押し付ける形で処理したのだろう。
 しかし、と。
 あの時のぬめぬめと光るような双胸を思い出しながら随分と小柄になってしまった慎二をみてふと、哀れを催したのは俺の中で以前の慎二に会う事はもう無いのだなと確信を持ってしまったからだろうか。

二次創作へ